その勢力の中心となったのがオルドス地方南部の夏州に勢力を張る平夏部であった。その首長である拓跋思恭は唐を援助した功績で国姓の李を授かっていた。宋政府は平夏の懐柔に努めて西平王の地位を与え、概ね友好関係にあり、北漢討伐の際には平夏よりも兵が出ていた。
平夏部の支配地は農業生産に乏しいが、その代わりに塩を産出するのでこれを輸出してそれと引き換えに食料・茶・絹などを手に入れていた。これは青白塩と呼ばれており、質が高く値も安いことから買い手には喜ばれた。しかし宋国内で塩の専売制が確立すると宋政府は青白塩を禁止し、自らの官塩を強制的に民衆に買わせるようになった。タングート側は青白塩を認めるように何度も宋政府へ要求するが、これを認められず次第に反抗的になってくる。
北漢滅亡後の980年に李継捧が地位を継ぐが、この継承には部内よりの反対が多く、その地位は不安定であった。これに不安を感じた継捧は自らの支配地を宋に献納し、開封にて暮らしたいと申し出てきた。太宗はこれを大いに喜び、継捧に対して莫大な財貨を与えて歓待した。しかし一族内の李継遷がこれに反対し、部内を纏め上げて宋に対して反抗の烽火を上げた。継遷は遼に援助を求めて夏国王の地位を貰い、オルドスを席巻し、1002年に霊州を陥落させて西平府[注釈 10]と改名して、ここに遷都した。
1003年に継遷が戦死して李徳明が跡を継ぐ。翌年には宋と遼とが澶淵の盟により和睦し、単独では宋に当たり難いので1005年に和議を結び、宋より西平王の地位を授けられ、毎年銀1万・絹1万・銅銭2万の歳賜を受けることになった。徳明は遼からも同じ西平王の地位を授かっており、両属の形をとっていた。宋と和平した徳明は西のウイグルを攻める。
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1031年に徳明が死去してその子の李元昊が跡を継ぐ。李元昊はかつて父徳明より「我らが錦や絹を着ることが出来るのは宋の恩である。」と宋に背かないように諭されたときに「毛皮を着て牧畜に従事するのが我らの便とするところです。英雄の生は王覇の業にあります。錦や絹がどうしたというのですか。」と豪語したという大器雄略の人物である。その言葉通り、ウイグルを攻撃して河西地域[注釈 11]を全て支配下に入れ、1038年に李元昊は皇帝を名乗り、国号を大夏とし、宋からの独立を宣言した。これ以後は西夏とする。
宋は李元昊の官爵を全て剥奪し、西夏との交易を全て禁止して、交戦状態に入った。国初以来の文治政策により宋の軍隊は弱体化しており、宋軍は西夏軍に何度と無く敗れる。しかし宋との交易が途絶した西夏も経済的に苦しむようになり、両国ともに和平を望むようになり、以下のような条件で1044年に和議が結ばれた(慶暦の和議)。
西夏は皇帝号を止めて宋に臣として仕える。
宋から西夏に絹13万・銀5万・茶2万の歳賜が送られる。その他に夏国主の誕生日などに下賜され、合計で絹15万3千・銀7万2千・茶3万となる。
しかし西夏側の最大の要求である塩の販売に関しては宋は要請をはねつけており、和議なったとはいえ西夏方面はその後も不安定であった。この後五回に渡って対立と和議が繰り返されることになる。王安石時代の1072年には吐蕃を討ち、ここに新たに熙河路を置いて西夏への牽制(けんせい)とした。しかし旧法党が政権を握るとこれは放棄され、新法党が盛り返すと再び設置されといった具体に新法・旧法の争いは外交にも影響を及ぼした。
宋夏関係は不安定なままに推移し、結局宋が南へと逃れたことで関係が途絶し、西夏は金に服属するようになった。